櫻屋さんの末松誠様。
元日経新聞の報道カメラマン。
日経新聞ということから、あまり恐ろしい現場には行かなかったそう。
世界各国を取材されながら古い物と出会われてきた。
初日の骨董もろもろ
「初期伊万里から柿右衛門様式へ」
末松 誠
2016・1・16
<初期伊万里> 「ヘタウマ絵」
粗放な作りながらも力強く躍動感あふれる装飾の魅力が高く評価されている。
李参平(文禄・慶長の役で朝鮮半島から連れてこられた陶工)が1610年頃に有田の泉山で白磁鉱を見つけた。唐津焼の陶器窯での試行錯誤の結果ではないか。
佐賀県、長崎県一帯に100カ所くらい窯跡がある。(「肥前陶磁」ニューサンエンス社 大橋康二) ①釉薬の生掛け ②三分の一高台 ③指あと 写真 正面ウサギ皿(猿川窯)
「有田」は生産地、「伊万里」は輸出港の地名なのだが「イマリ」が通称になった、江戸時代には「今里」「今利」とも表記されている。学術的には肥前陶磁といわれている。
<柿右衛門様式>1650年代にはめざましい技術革新で中国レベルの薄い磁器ができるようになり、1659年東インド会社から大量発注を受け国際商品として認められた。
・実物 白磁陽刻紋輪花皿(大森さん所蔵) 延宝(1673-80)年
濁し手(米のとぎ汁の白)、口紅の茶色、高台の目跡。
・貿易陶磁として東インド会社により、ヨーロッパへ輸出されブームになった。
当時はオランダのデルフトで軟質陶器に白い釉薬。
欧州の磁器ができるのが、18世紀、独・マイセン。フランスのセブール、リモージュがまねる。
・1640年ごろから、中国は明末清初の混乱期、1656年海禁令。
景徳鎮で作っていられないし、輸送も困難になった。というラッキーな時代。
18世紀に伊万里は国内向け量産品の時代に。
・呉須(コバルト、回青)は中国から輸入品。初期の砂目高台は朝鮮から。
・わずか、40年2世代でこれほど技術革新が進み完成度が上がるものか。
2日目はこのような形で始まった。
たくさんの差し入れをいただきながら失礼な話である。
こんな感じ。
なんて贅沢な話か。
2日目の骨董もろもろ
「天目茶碗(建窯)とショウ(サンズイ偏に章)州窯」
末松 誠
2016・1・17
2010年8月 中国福建省の北部の建窯と南部のショウ州窯を訪れた。
福建省は中国東南部、台湾の対岸。面積は日本の本州の半分ほど
中国茶で有名な武夷山、客家の円楼が知られている。
関空からアモイへ4時間のフライト。
<建窯(けんよう)>
福建省建陽県水吉(すいきち)鎮
武夷山の南、福州から高速道路で5時間ほど。
大路後門一号窯が復元されている、135.6㍍の世界最長の窯跡がある。
東洋陶磁美術館の国宝油滴天目茶碗(12,3世紀)のふるさと。
宋時代に日本では鎌倉時代に禅宗の僧が、中国へ勉強に行って、お茶を伝えた。
鉄分が多く、天目台に置く。
<ショウ州窯>
福建省南部のショウ州市、近畿地方ぐらいの範囲に窯跡が散在する。
平和県のシュウ州窯博物館を訪問した。
1580年から1615年まで。
この地方の陶工が景徳鎮で働いていて、景徳鎮が稼働していない時期に働いた
景徳鎮が官窯で完成度が高いのに対し、ダイナミック(粗雑)な印象)を与える。呉須染付、呉須赤絵。
黄瀬戸、織部、青手古九谷の源流。―「華南のやきもの」根津美術館 西田宏子副館長。
・実物で見る、高台(底)部 カンナ削り日本と中国のちがい。
中国 鉄カンナ 硬い
日本 木、竹カンナ 軟い
但し、日本でも中華が流行する時期があり、幕末からは鉄カンナの使用も多い。
「話は脱線し放題、話したいことは迷走して何処かへ行ってしまうことが
多いので、作ったメモです。」ということでしたが、
このようなレジュメをいただくと余計にわかりやすい。
しかも実物を見せていただきながらの話である。
陶片の話、おもしろかったわ。
何百年も前に脳も心も飛んで行った。
講演の合間合間の話が楽しかった。
お客様が来られたら、丁寧に何度でも教えてくださった。
大きな身体でボソボソと語られる。
聞き漏らさないでおこうと必死だった。
さすが直子さんの連れ合い。